広島

私の父は戦時中の少年時代、特攻隊に志願し九州大学の航空工学科へ入学したそうなんだけれどその年に敗戦。秋には工学科はなくなってしまったそうで、浪人して、敗戦から三年後の広島大学へ来たそうだ。で、原爆孤児たちの劇団を作っていたそうな。


実は前日に行った安芸の宮島も、父が若い頃、祖母とともに最初で最後の旅行に来た場所なんだす。


父の足跡をたどり続けて、とうとう今回は原爆ドームへと辿り着いたんである。

青空すぎるとまるでかなしい。いろんなことが。



その横で、熱く語るボランティアガイドの被爆者の三登さんという方がいた。

この方は、原爆資料館のほうでもガイドをやっとったそうだが、
原爆資料館でも語られない、とにかく衝撃的で苦しくて悲しくて憤るようなホントウの話を伝えている。(↓みとさんのブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/mitokosei/folder/892278.html


また、南相馬市から避難され、もう家に帰れないかもしれないという衣山さんという方が、
(偶然にもその日は原発が全停止した日であったが)
二度と稼働しないように後世に残さないように、原発国民投票の署名活動をされていた。
もちろん署名して、久留米に戻ってからは賛同人の登録もした。
***みんなで決めよう「原発国民投票http://kokumintohyo.com/


左:衣山弘人さん 右;三登浩成さん


ところで、原爆ドームの川向いの平和記念公園の中に小高い芝生の丘が見える。
三登さんのお話によると、そこは「原爆供養塔」と言って、そこには、原爆によって一家崩壊してしまった方々や、
名前の判明しない七万人の遺骨が納められているそうだ。
また、このあたりの地面は、結局、死体をそのまま埋めたまま、
上から盛り土にしたため、未だに骨はうまっているそうだ。


私たちはその無念の骨のうずまった上を歩いていたのだ。


実は家人の大叔母も長崎で被爆し、長崎の原爆病院で亡くなっている。
アメリカに留学していた家人は米国人のお友達がとても多く、
アメリカから友人が来た時は、必ず長崎の原爆資料館に連れていくそうだ。
一昨年、日系4世の家人の親友が滞在しに来た時も、
夜おそくまで、原爆について熱く語っていた。


資料館に行く途中、さっそく原爆供養塔へ行き、お経をあげさせていただいたが
もう声にならない。
なるわけがない

なぜかその丘の上に、カラスが一羽。黒いマントをひろげたような格好で・・・


たくさんのたくさんの無念の死の上に
平和があって、そこで生きさせて頂いていた戦後の私たちなのに。

わたしは本当にはなんにもわかっちゃいなかったよ。


長い間忘れていた方々へ、本当にごめんなさい。
ごめんなさいなんかで言い切れない


父を巡る旅は、そうして、沖縄へと続くことになる。
沖縄の終戦記念日に泣きながら帰ってきてしまった父の思い出。


6月23日、沖縄に初めて行くのだがこの日は沖縄の終戦記念日です。
沖縄のお寺の戦没慰霊祭で歌うことになりました。
東日本大震災、広島、沖縄、すべての亡くなった方々の魂に届く力など私にはないけれど
自分なりに一生懸命レクイエムを歌おうと思います。


うたえますように。


みどり拝